アラサー元腐女子の奮闘記

恋愛奮闘記からただの奮闘記に。生きることそのものが戦い

言葉は毒

アラサーになり、ままならないコトが増えてきた時に、積み重ねてきた言葉が毒ともなるし薬ともなると気がつく。

 

この手の話題にはよく道端三姉妹が出てくるが、あそこまではいかずとも、近しい人にかける言葉は人を潜在意識で操ることが出来る。

 

必然? (XXXHOLIC ~ホリック~)|クジラのブログ

 

私はホリックの言霊の会を読んでからずーーーーーっとコレが離れないのだが

 

今まで本質的に自意識が独り立ちしていないくて、はじめて「もしかして私1人でやっていけるのかも」と思った時に、改めてこの話を思い出した。

 

「あなたはそそっかしいんだから、ちゃんと見てないと失敗する」

 

とか、その手の言葉って昔からよくかけられていて

 

確かに私はそそっかしいのかも知れないんだけども

 

「私はそそっかしいから、失敗するから気を付けよう」と思い込むと、私はそそっかしい、だから失敗するという部分がいつまでも、いつでもどこにでもあって

 

気を付けなくちゃと思っていても失敗する様がありありと想像できる

 

想像できるのに慣れてきて、段々そそっかしさからくる失敗に無頓着になる

 

「私ってそそっかしいからいつもこうなんだよね〜笑」

 

 

そそっかしい人になる。

そして失敗の原因もいつもそう。

 

お陰様で忘れ物王と水分こぼし王として育った

 

言葉は鎖って、結構怖い。

 

でもソレは性格でしょ?と思われるかもしれないが、ダイエットに関してもそうだった。

 

私はずっと家族の中でデブキャラだった。

 

兄弟はみんな細身だし、母も出産前は38キロのガリガリタイプだったそうで

 

53キロがデブだとは言わないが、締まりのない53キロはやはり現代の日本女子的には見た目の部分で太ましい方に入るであろう。

 

私はデブだと思っていた。

ダイエットを何度繰り返しても、50キロ止まりで、また55キロくらいに戻る。

 

でも、別に気にならない

危機感もない

 

だって私はデブだからだ。

デブに慣れているのだ。

 

下っ腹が出てるのは当たり前だし、姉のジーンズが入らないのは当たり前

 

太ももの部分でストッキングを上げるのに苦労した末に破れても、当たり前だから気にならないし、何としてもどうにかしようとは思わない

 

だって私はデブなのが当たり前なのだから

 

食事制限を始めると、必ず母からの妨害が入る。

 

「運動しなきゃ意味ないでしょ!ちゃんと食べなきゃダメ!」

 

運動してても茶々が入る

 

「動きが違うんじゃない!?」

 

「そんな簡単な運動で痩せる訳ないよ〜!ママだって出来るよ!」

 

止める割にはふとした瞬間に「スゴイ足してるんだからスカートなんてやめなさいよ」「もういい年なんだからそんな服似合わないよ」

 

ウチは女系家族なので、私だけでなく、どの兄弟にも母に対しても同じようなセリフがやり取りされる。

 

でも、このネガティヴな部分を長年刷り込まれると、自分自身が自分を変えるつもりになった時に、本来の力を発揮できなくする足かせになると思う。

 

だっていつの間にかそれは、自分が自分自身にしている評価にすり替わっているのだ

 

けれど、私はずっとどこかに家族が言うことが一番正しい。外の人が言いづらいことを言ってくれているんだ。と思っていた部分がある。

 

それはあながち間違いではないが、思考のクセに入り込まれると自分のネガティヴな部分が当たり前になって長年居座る。

 

体重が49キロになった時

正直自分でも驚いた。

 

あれ…私って50キロ切るんだ…

 

って、驚いたのだ。

 

50キロを切る自分を想像していなかった。

 

足が細くなる自分

座ると下っ腹がズボンに乗らない自分

体は細くなっても頬が痩けない自分

 

知らなかった。

私って普通に痩せるんだ。

 

って、驚いた。

 

病んでて1週間まともに食事を摂らなかった時でも50キロは切らなかったのに。

 

体力的に回復したとき

どうしても思考はネガティヴな方向に落ちた。

 

そんな時は運動だ!と本で見たので、何も考えなくて良いように

 

空いた時間を運動に当てて、血流を良くしよう!と半身浴を続け

 

暇だしスキンケアも頑張ろうかな!?とか始めたら、普通に痩せたし毛穴の黒ずみも無くなった。

 

あれ…?健康だなぁ

もうこんな環境にいるのはヤメよう!!自分を責めるのはヤメよう!

 

と思った途端、元のポジティブな私+今までの経験を冷静に振り返った理性的な私がいる気がする。

 

次の仕事は決まってないが、何かバージョンアップした気がするのである。

 

 

 

私は精神的に参ったとき、絶対母には連絡を入れなかった。

 

それは母が嫌いだとか信用してないとかではない。

 

今の弱った精神状態で母におぶさるのは、私そのものを母に委ねることになると思ったからだ。

 

どう動くとしても、母が介在すると私がどうしたいかが判断できなくなる気がする。

 

人の判断に身を委ねるのは、実はとっても楽なのだ。

 

最後の最後、どう足掻いても自分の決断だと逃げ道をなくすことって怖い。

 

未だに怖い。

 

でも私は、親に恨まれようと自分の人生を棒に振ろうと、最愛の祖父母、私を1番に慕ってくれる大事な老犬の死に目に会えなかったとしても

 

自分1人で立ちたい…。

 

自分が何をしたいか、どうなりたいか、やりたいと思ったことをしたい。

 

現実を見ろとか、普通に結婚して普通に生きろとか、多くの人が苦しんでいる普通を体現することに何の価値も感じない。私がしたいと思ったことを、選び取って、したいようにする。

 

そこから後悔が生まれたって死ぬ訳じゃない。

昔からのこの思考に、やっと自信が持ててきたのだ。

 

私は自分がどうなるのかは分からないが、どうなるのか見るために好きにしてみようと思う。

 

それで普通の社会に合致しなかったとしても、何か居場所はあるはずだ。

 

ココだけが世界じゃないし、私の時間は有限だ。

 

だったら楽しいことをしよう!

 

出来ないことを探すんじゃなくて、ラクしたいならラクが出来るように動いて

 

楽しくしたいなら楽しくなれるように動いて

 

そんな風にして行きたいのだ。

 

 

私は今の社会も、言葉の毒に縛られている気がする。

 

常識って何だろう?ソレの為に死んでたら生きてる意味なくない?

 

と、思うが、生きる上で社会と戦っても仕方がない。

 

上手くお付き合いをしていく中で、私はこの常識をジワジワ変えてけないかな〜と思っている。

 

雨が降ったら休みになれば良いのにな〜

 

お給料は最低で良いから、年間休日をもっと増やしたいな〜

 

会社に来る日と来ない日自分で決められたら良いのにな〜

 

とか

 

実際やってる所もあるだろうけど、まだまだみんながそう思っていない。

 

台風でも仕事に行って電車止まってイライラして、最悪会社に泊まるのがあるあるなのだ

 

嫌いな人がいても上手く付き合わなきゃいけない

 

精神病んでる記録があったら転職に不利

 

そんなのどーーーーーでも良いーーーーーー!!!!って、みんなが思えるように出来たら良いな〜

 

 

って、途中で話がズレた気がするが、私の野望だ。

 

みんなもうちょい自分と対話した方が良いと思う!