アラサー元腐女子の奮闘記

恋愛奮闘記からただの奮闘記に。生きることそのものが戦い

感情を他人に投影する

感情を抑圧するからキレやすくなるんじゃないか?という前日の日記に続き

 

私はずっと去年くらいまで「人のために怒る」「ケンカする」という事が多かった。

 

チームの弱い子のために

◯◯ちゃんの為に

組織の為に

インターンの為に

などなど

 

誰かの為に、と大義名分を打っているが『自分の為に怒る』ということを封じていたからいつも大戦争に発展していったのではないかと思う。

 

怒ってるのは私じゃない

私はあの子のために言ってるんだ

あの子が可哀想じゃないか

お前が間違っている

 

人の為と思えば正義はコチラにあるような気がする。

 

けれど、きっと私は「自分がおかしいと思った」とか「自分はこうしてほしい」「こうしたい」と伝えることを封じてしまっていたのだ。

 

それは母や姉の影響である。

 

母の遠回しな「察して欲しい」感情表現が鬱陶しくて嫌いで、私は他人に自分のニーズを伝えることは悪だと思い込んでいた。

 

また、姉はとことん「空気を読め」を貫く人だった。

みんなが楽しい中つまらなそうな顔をするな

コミュニティの和を乱すな

空気を読んで参加しろ

 

「つまらない事はしたくない」「つまらない事に時間を割きたくない」と思う私は、姉のこの圧力が嫌いだった。

 

嫌いだったが、人に可愛がられてのし上がる事に長けていた姉が言う事だし、私は姉と癒着していたから

 

この呪縛は大きかった。

 

何で喧嘩しちゃうんだろう

アンタは自分の物差しで人を計るから

アンタは人が苦手なんだよね

どうしてそんなに他人に一生懸命になるのか意味が分からない

 

そう言われて育ってきたが、それは全部間違いだ。

 

私は自分を優先する思考がなかったから、イヤだと思ったことを表に出す術がない。

 

だから誰かを隠蓑にして感情を出すしかなかったのだ。

 

だから私は何で自分が人とケンカをしているのか分からなかった。

 

誰にも頼まれていない、思うところがある人を隠蓑にして「コレは私の感情じゃない」という大義名分を立てたケンカをしていたのだ。

 

言い分に他人が入るから、自分の物差しなどない。

私は自分の物差しを作る事を禁じる生活をしていたからだ。

 

私が間違ってる

私の価値観は表に出しちゃいけない

空気を読んで上手にやらなくちゃ

要望を伝えることはダメなこと

私のしたい事をしたいようにするのはいけない事

 

そう思いながら生きてきたから、自分が何が好きで何が嫌いなのかもよく分からない。

 

家族は好きだけど、自立した今は昔の自分を気の毒に思う。

 

嫌だと言って良い

上手く振る舞えなくて良い

思った通りに好きなことをして良い

 

これから残りの人生をかけて、自分の感情を大切にしてあげなくちゃならない。