アラサー元腐女子の奮闘記

恋愛奮闘記からただの奮闘記に。生きることそのものが戦い

またもや自分の自己肯定感の低さを知る

私をよ~~~く褒めてくれる人がいる。

「天才だ!さすがだ!素晴らしい!大崎ちゃんがいてくれて本当に良かった!」

と、言ってくれる

「大崎ちゃんは何でもできるね。どこでもやってけるよ。どこでも重宝されるよ」

そんな風に褒めてくれる。

 

私が唯一得意だと言うことを、肯定して惜しみなく褒めてくれる。

 

その人が言ってくれることは多分本当で、本心で、その人にとって私は重宝してもらえる能力があるのだろう。

 

でも、やっぱりどこかでその賛辞を疑ってしまう自分もいて

疑ってというか

「この人にとってはスゴイ能力でも、世間から見たら私なんて大したことない」みたいな。

そんな無力感みたいなのを抱えている。

 

目の前のこの人の賛辞よりも、画面越しに見える数字を信じている。

何だかこう…そういうトコだぞ自分…!と…

 

私は自分の見た目が好きな話はよくするのだが、美の基準はさておき、鏡に映る自分というのもソコソコ客観的に見られる分かりやすい評価だ。

 

仕事の能力は自分を否定する要素が沢山ありすぎる。

 

前職の事務処理能力のなさとか、就活で落ちまくることとか

自分はダメなヤツなんだ役立たずの無能だと思い込む材料は沢山ある。

 

そのクセ人のことを叩きたくなるのは、自分が自分を追いつめるから人のことも許せないのかなぁなんて考えてみたり。

 

目の前にいる人の言葉を素直に受け取っていったら、もっと自分を肯定できて心に余裕ができるんだろうか。

 

いつも手放しに

「大崎ちゃん大好き2時間だけでも会えて嬉しい大崎ちゃんに一目だけで良いから会いたい」と言ってくれる友人がいる。

 

この人は一体私の何が好きなんだと毎度悩ましいのだが、それも素直に受け取ってみたら良いのだろうか。

 

この子は、「理想の私」を好きなんだといつも思っている。

私がこの子に見せてきた、虚勢で出来ている「私が作り出した理想の私」を素直に受け取ってくれているんだと思っているのだが、もしかしてちょっとでも理想の私に近づけているんだろうか。

 

ちょっとずつで良いから、自信を持って良いんだと自分に言い聞かせながらも、賛辞を受け取る責任についてなんて考えてしまう。

 

「そうよ!私は役に立つのよ!さぁ頼って!エッヘン」と言うのは、ちょっと怖い。

期待外れになってしまったらどうしようと、ちょっと怖いのだ。

 

チキッてるな。自分。