アラサー元腐女子の奮闘記

恋愛奮闘記からただの奮闘記に。生きることそのものが戦い

愛し合うとはコップの水を行き来させるような行為なんじゃ?

現在、第4次「もうヤメた期」に突入している我である。

くずぴとの付き合いも何やかや1年近くになり、その間4回こうなっているんだから1シーズンに1回+αくらいに「もうイヤだ!」と言っていることになる。

 

回を追うごとに私の情熱が収縮していっているのが分かるのが悲しい。

ドラマチックな感情すらなくなったら、浮気相手なんて本当にタダの時間の浪費である。

 

さて、なぜタイトルのような思考に陥っているかというと、失恋が苦しいのは愛を受け取ってもらえないからだと言う。

 

「与えてもらえない」ではなく「受け取ってもらえないから悲しいし苦しい」と考えると、愛情って水みたいなもんなんじゃないかな~と思うわけだ。

 

 

 

イメージ、私とくずぴ双方でコップを持っている。

相手のコップの大きさは分からない。

 

私が自分のコップに並々水(愛情)を入れて、容量は分からないけどくずぴのコップに移す。

 

くずぴから水が返ってくる。

なんだか少ない気がする。

 

でも返ってきた!わぁい!

それだけで私はまだ頑張って水を汲んでこれる。

頑張ってまた並々水を入れて、くずぴの器に注ぐ。

ダバダバと零れているのが見える。

「え?ねぇそれラップ貼ってる???コップにラップ貼ってない?」

って困惑している状態。

 

私とくずぴで、愛情表現の種類が違うのは分かる。

だから人は言葉や行為を求めて相手がどんな器を持っているのか知りたがるんだろうと思う。

 

でも、どんなコップ持っててもラップ貼られちゃあんた

私の水もったいないじゃん…。

 

 

返してくれないと私があげられる水の量が減っていくんだけど…

私たち間の水が減っていくんだけど…

なくなっちゃうよ?と

 

なくなっても良いなら「いらない」と言ってほしいのだが、私が水を下げようとすると止めるのは欲張りだと思う。

 

でも、私とくずぴの器に対する考え方も違うし、私が水だと思っているものは相手にとってはジュースかも知れないし石油かも知れない。

 

何となく、私はもう彼に執着はないのだが、まだ期待に応えようとしている自分がいるのを感じる。

 

水が欲しいみたいだから、水を与えている。

でも、もしかしたらくずぴも私が水を欲しがっていると思って付き合ってくれているのかも知れない。

 

だとしたらこの関係って結構徒労じゃなーい!?と思うんだけど、何て伝えたら良いのか分からない。

 

私はジュース(友達としての愛情)で良いんだけどな。

もう水(恋愛としての愛情)じゃなくて良い。

ただ楽しい感情だけ共有して繋がっていたい。

 

特別な対象として愛してないから、マイナスな感情に付き合ってあげる気が起きないのだ。

 

私が分かりやすく「愛し合ってる!」と思えるのは実家のわんこだ。

私の愛を存分に受け取って「ぼくもあいしてる!」と存分に返してくれる。

 

でもわんこは「この人の愛はほしくない」とか言わないしなぁ…。

言わないのかな?

 

 

とめどない感じで、とりあえず終わる。