アラサー元腐女子の奮闘記

恋愛奮闘記からただの奮闘記に。生きることそのものが戦い

2番手の利点に気付いてしまったのだが

「くずぴには甘えて良い」といつも思っているのだが、何で他の人にはダメなのにくずぴには良いんだ?と考えてみた。

 

もしかしてだけど、私2番手に甘んじることによってくずぴを一方的に殴っても良いという方程式を自分に打ち立ててないか?と疑っている。

 

何をしても赦してほしい。

急にブロックしてもめげずに向かってきてほしいし、手をつなぎたい時にはつないで欲しいし一緒にいたいと言ったら私が飽きるまで一緒にいて欲しい。

 

何もかもを受け止めていつまでも私を求めていて欲しい。

 

でもそんな要望は通らないと思い込んでいる。

普通に好意がある者同士なら通るのかな?

ちゃんとコミュニケーションしてたら通るのかしら??

 

だから、2番手でいればアッチにも多少の罪悪感はあるからある程度は受け入れてくれるし(あると良いなw)コッチは要望が通らなかった時の自分への言い訳が立つ。

 

だって私は2番目だから仕方がないんだと、自分に言いやすいんじゃないのか…?

 

暴れても冷たくしても「あんたが先に不義理してるんだから多少私の要望は汲むべきだ」と、くずぴにも自分にも言い訳しているんじゃないだろうか。

 

真っ向から好きになって、好きになられたとしたら、もし要望が通らなかった時に私必要以上にヘコんでしまいそうだ。

 

あぁやっぱり私って魅力ないんだとか、そんなに私のこと好きじゃないんだとか、そんな落ち込みを回避するためにこの人に受け入れられようとしてるんじゃないのか…?

 

考えすぎか…?

 

でも、私の拗らせを紐解いていくといつも自分への言い訳が立つことが最重要課題なのだ。

 

不特定多数の人に好かれようとするのは

「自分はちゃんと人とコミュニケーションが取れていて、尚且つ好かれる要素がちゃんとあるんだ」と自分に証明するためだった。

 

先行逃げ切り型でつい頑張ってしまい、失速が見えてくると仕事を変えてしまうのは

「私は有能だ、必要とされる人物だ」と自分に言い聞かせるためだった。

 

いつだって自分を安心させるために外界があって、友人も含む身内以外の人々は、私にとって二次元と一緒だ。

 

愛されてるとか、能力があるとか、私が自分を評価してあげないとどうにもならないことなのに。

 

甘えて良い理由がないと人に甘えられない。

愛されていると思えない。

対価を払わないと愛されないと思っている。

 

くずぴは不誠実というマイナスを私につけているから、私はその代りに甘えて良いのだ。

 

私は私の気苦労を払っているから、苦手な人から好意やモノをもらって良いと思っている。

 

みんなもっと純粋に私のことが好きなはずなのに、分かっているのに、私が私をまだ認め切れていないのかも知れない。