アラサー元腐女子の奮闘記

恋愛奮闘記からただの奮闘記に。生きることそのものが戦い

「こんな私が」はラクだけど

私の10年来の友人は芸能界オタクだ。

特定の芸能人が好きなのではなく、芸能界が好き。

 

事務所のパワーバランスやカラー、スポンサーやテレビ局との関係、週刊誌の動向は編集長が誰になったか、どういった人物でどのような思想の傾向があってその人はどの会社と繋がりがあるのか等々

 

私が全く持たない視点でテレビを見て楽しんでいる。

私は芸能界のことはよく知らないしテレビもあまり見ないが、彼女の考察を聞くのが好きだ。

 

彼女は芸能界には興味があるが、一般人には興味がない。

出会ったばかりの頃は私の常識で当てはめて考えていたので「またまたw」と思っていたのだが、10年も付き合っているとガチで人に興味がないことが分かる。

 

ただ、彼女は冷たい人ではないし、むしろ思いやりがあって度量も広い。

 

その度量の広さは実はあまり他人に興味がないから得られているものだと気付いたのは、いつ頃だったか。

 

『興味がない』というと冷たく聞こえるが、実際の彼女は冷たいわけではないことを考えると、彼女が「個」を非常に重要視しているから出てくる言葉だと分かる。

 

「和」は時に攻撃に変わることもある。

「和」と「個」を器用に行き来できる人なら良いが、そうでない人間にとっては結構しんどい思いをすることもあるだろう。

 

彼女は昔から「協調性がない」という理由から嫌われることが多々あるが、「個」を大事にする人からは深く愛される。

 

いつも必ず彼女のサポーターになる人物が現れることがその証明だ。

 

私は最近心理学のブログを読みながら「自己肯定感をあげよう!」と励んでいるのだが、自分以外にも愛を受け取れないから何だか上手くいかないとく現象があるなぁと感じている。

 

心閉ざしがちだからよく軌道修正のために読んでいるのが下記ブログだ。

nemotohiroyuki.jp

 

与えたがるけど受け取れないのは自己肯定感が低いから、と根本さんはよく言っているが、確かにそうなのだ。

 

友人しかり私しかり、くずぴもそうだが、人に与えたり搾取されたりするのは多少抵抗があったり全くなかったりするのだが

 

奪われることに関してはあまり抵抗がない。

 

でも、与えられている好意や愛や尊敬のようなものには気付けない。

 

いつも疑っているし、何が目的だ?と勘ぐってみたり、自分のことを人が好きになるはずがないと可能性を潰して見たり。

 

もっと複雑なことが多いが、ちょっと純粋な気持ちになってみると「あれ?もしかして私愛されてた?」と思い当たることがある。

 

そして「あなたが好きだよ、大事だよ、素晴らしい人間だよ」と伝えても、受け入れてくれないことが多いなぁとも思う。

 

「そんな訳ないじゃん!私みたいなの五万といるよ」

「そんなんお世辞に決まってんじゃん、ありがたいことだよ〜」

などなど

 

褒めてくれるのは嬉しい、けれど、自分がそんな価値のある人間な訳がない。と、よく友人は言っている気がする。

 

そんな大々的に卑下している訳ではないのだが、暗にそう言ってしまっていることが多々ある。

 

しかもかなり無自覚だw

 

気が強くてハッキリ物事を言うけれど、彼女はあまり自分を評価していない。

 

最近になって、普通に恋愛したり結婚したりするもんだと思っていたとボヤいていたが、それは多分彼女が受け取れていないからなんじゃないかな〜と思うのだ。