アラサー元腐女子の奮闘記

恋愛奮闘記からただの奮闘記に。生きることそのものが戦い

「何故なら武装」を考える、理論的でもなんでもないブログ

何かみんなこう、人を説得するというか、言い分がキチンと筋が通っていることを証明するためにちゃんとデータを出すんだよなぁと感心している。

 

はてブロの上位記事も、引用元とかちゃんと公的なデータとかを引っ張って来ていて、私にはできない芸当だなぁと思っている。

 

価値観やバックボーンが違う人に分かってもらうには、客観的で論理的で普遍的な何かが必要で、それを提示して武装しなければならない。

 

そこに「私はイヤだから絶対いや!絶対拒否!」という意見は通用しない。

 

でも、分からない人には何を準備しても理解されないし、結局みんな自分が正しいと信じていることを通したいわけだから

 

ちゃんと「みんなで話し合って決めたいんです」ということ以外は話し合わなくて良いんじゃないかな~と思うのだ。

 

 

結局お互い何を準備しても、ポジショントークする気満々だし。

叩き合うのはただお互いを否定しあうだけの憂さ晴らしだし。

 

どの立場から見て何を言っても「それは一理ある」ことだらけだ。

 

世の中正誤の2択で決まる事の方が少ない。

 

ディベートの大会みたいにジャッジする人がいないのならば、自分と違う意見の人には触らないのが一番だ。

 

学校や会社になるとそれができないのがちょっと辛いのだが、割り切ることはできる。

 

ネットでの議論とかを見てると『きっとこの人たちはケンカがしたいんだなぁ』という風に見える。

 

誰かと戦いたいのかな?

それは果たして幸福なのかなぁ。

わざわざ近寄って噛みついて、噛みつき返されて

敵と味方と中立を名乗る人たちが出てきて会話はゴチャゴチャになっていく。

 

それって何か意味あるのかな~とか思ったり。

 

前~にロンブーの淳さんが「嫌なら見るな」と発言して炎上しており

私も「人を楽しませる芸人さんがそんなこと言って良いのか!」と怒った側の立場だったが、今なら淳さんの言うことも分かる。

 

嫌なら触らなければ良いじゃないか…。

 

冒頭で「私はイヤだから絶対いや!絶対拒否!」という意見は通用しない。と書いたが、不思議と「絶対イヤ!それは私がやりたくないからやらない!」と言わない人も多い。

 

「大人の世界じゃそれは通じないよ」とよく言われるが、そうかなぁ?とも思う。

 

やりたくない事はやらない!って言えば良くない??

 

やりたくない!何故ならば…って説明しなきゃならないけど、そうなると納得した人も巻き込まなきゃならなくなるし

 

巻き込まれたら自分のスタンスも崩さなくちゃならなくなるから、立場を変えない為に「何故なら」をみんな言うのかな?

 

やりたい人がやる

やりたくない人はやりたいことをやる

 

今何もしたくないって言ってる人だって、何もしないのはヒマだろうからしたい事したらイイよって言えば何かするだろう。

 

それじゃいけないのかな~と思いつつ、みんな大変だな~ちゃんとしてんな~って感じ。

 

私のブログも頑張って何故なら武装しようと思ったけど、私はできないからしないのである。

 

そんな身もふたもない、ヤマもオチもないブログを見に来てくれる人がいて、私は「このスタンスも悪くないんだろうな~」と思ったりもする。