私は人が「コレいいよ!」と言ったものは食指が動いたら結構アクティブに取り込む方だ。
美味しいよとか、面白かったよとか、聴いてみて!とか、今まで触れたことがないジャンルでも試してみる。
くずぴはよく色んなものを勧めてくれる。
今やってるゲームとか、見てるアニメとか、うちの近くの美味しそうなお店とか。
とにかくいろいろ教えてくれるのだ。
好きな人が良いと思っているものは知りたいし、知らないことに触れるのは単純に楽しい。
布教されるのとかとても好きなのだが、その度に報告するのは何かこう…下心があると思われたら嫌だなと思うのは、私がいつも人のニーズを汲もうとしてしまうからなのだろうかと考えている。
このゲームやってるよ!→一緒にやろうよ!フレ登録しよう!
このアニメ面白いよ!→見て感想聞かせて、語り合おうぜ!
あこさんちの近くにこんな店あるよ!美味しそうだなぁ→一緒に行こうよ!そんであこさんちに行ってセックスしようよ!
という目的があるのではないか?といつも思っている。
みたいな、いつも「どういう意味だ?」と勘ぐってしまう。
くずぴに限らず、気を許していない老若男女みんなに「この人どういうつもりだ?」と勘ぐってしまうのだ。
友人曰く「みんなそんな深く考えてないし絶対他意はない」とのことなのが、そうなの?みんなそんな純粋に話ししてるの?
「へ〜面白そ〜行ってみたーい」とか言うと、「じゃあ行こうよ!」という流れになりがちじゃないか。
一緒にいろんな体験がしたい人なら誘発するし、1秒でもプライベートをこの人のためにつぶしたくないという相手なら予めその流れにならないように回避するじゃないか
違うのかな!?
この思考癖をなんとかしようと今現在奮闘しているところなのだ。
このニーズを探る癖のせいで、どうにも物事を「結果が出たかどうか」で判断してしまう気がする。
相手が求められた反応を正しく返せたのか
私が望んだ結果につなげることができたか
そんなことを求めてしまうのだが、相手にそもそもニーズがなかった場合、これは全くもって無意味なのでは…?
結果とか、ないのでは…?
くずぴに思ったよりも愛されていたのかも知れないと思い始めたのは、この自分のニーズ思考を反省し始めてからだった。
言葉の裏にはいつも意図があって、それに正解を返さなければならないと思っていた。
けど、もし何もなかったのだとしたら、あの時もあの時もくずぴが言っていたことは(例え状況に酔っていただけだったとしても)本心で、何も裏なんかなかったんじゃないかと思って
あ〜あって感じだ。
「どういうつもりだ?」と常に勘ぐっていたせいで、私は結構トンチンカンなことをしてきたんじゃないかなと
申し訳ない気持ちだ。
贖罪も込めて、取り返せないかなぁとも思っている。
今までなら「何だかカッコ悪いし」「私が悪いんじゃないし!」
と思ってできなかったが、まだ終わっていないなら、まだつながっていたいと表明しても悪くはないと思うのだ。
私と彼の間にまだ結果はない。
そもそも、生きている間に結果がでるようなことはないんじゃないだろうか。
この出会いが良いものだったか悪いものだったかは、死ぬ時の私の状態による気がする。
今まで出会ってきた人たちだって出来事だって、まだ良かったのか悪かったのか分からない状態だ。
ちょっと今回は、仕事もくずぴも今までしたことなかった選択をしてみようかな〜と。
分岐ルートを変えてみようかな